第3回 住まいの歴史 続「夏をもって」を問う

日本の住宅は、開口部主体の夏型の住宅として作られてきた、と思われています。日本建築の流れは、狩猟主体の縄文時代の竪穴式住居から、稲作主体の弥生時代に、コメの保管のために高床式倉庫が生み出され、これが高床式住居に発展し、平安の寝殿造り、鎌倉の書院造と時代に引き継がれ、今に至るとされています。このことはおそらく間違いのない事実かと思われます。ただし、これはあくまで“建築”であり、住まいではありません。

建築と住まいでは、その目的が全く異なります。寺社仏閣とお屋敷・お城、これらに共通するのは「力の象徴」です。非凡なる力をもつことが、信仰の礎となり、あるいは民を従える原動力となります。よって、力をもつほど、それを表すシンボルも大きいものになります。このことは、洋の東西を問いません。ヨーロッパの石造の教会の天井がとんでもなく高いのは、来拝者に神の存在を感じさせるためです。

ヨーロッパのお館を見て、貴族の暮らしを思い浮かべても、一般庶民の生活の舞台と思う人は余り多くないと思われます。ところが、我が国の住まいについては、多くの人が平等院や大覚寺などのお寺のイメージに源流を捉えているようです。住まいは、私たちの暮らしの容れものであり、必要以上のシンボル性は要求されません。繰り返しになりますが、建築とは、全く異なる存在です。

先の建築の流れが、そのままに住まいの歴史であるかのように扱われていますが、絵巻物や襖絵などに残るものから、多くの一般庶民の住まいは、竪穴式住居から、壁付の竪穴式ともいうべき小屋になり、屋根が組まれて板壁・板屋根(農村部では土壁・茅葺屋根)と発展して今に至っていることが伺えます。

ここで興味深いのは、こういった構造的に単純な小屋においては、開口部主体の造りは難しく、結果的に冬型の住宅にならざるを得なかった、ということです。現存する最も古い住宅と呼ばれる住まいが、通称、箱木千年家です。地方の豪農の館であり、決して一般庶民の住まいともいえませんが、暮らしの容れものであったことは間違いありません。この住まいには、開口部は僅かしかありません。とても夏をもって旨とされていたようには見えません。むしろ、高く厚い藁ぶき屋根と合わせて、冬の寒さに備えているように見えます。

奈良や京都の町家は明らかに夏型の住まいですが、これらの形成年代は江戸の中期、街中における建築の住宅化(少なくとも、京町家は職住一体のオフィス兼用住宅がルーツであることは間違いのない事実です)によるものであり、これが日本中の住まいの一般型と呼ぶには無理があろうかと思います。

筆者は、夏をもって旨としてきたのは建築であり、住まいは冬をもって旨としてきたのではないか、と考えています。このことが、今後の夏型住宅を否定するものではありませんが、誤った歴史的認識のもとに冬型住宅を排する姿勢はどうかと思います。